曲がりもの

強風の夜。
あえて枯れたのが混じった花を、

曲がった野菜を買う。

奢りはない、いまはそれ側の立場なのだ。

50歳を越えると終わりを意識する話

 50歳を越えると体感で終わりが見えてくるのだという。

 人のツイートを勝手に埋め込ませていただきました(twitterの規約上は、正規に埋め込めばOKになっていますが、問題あるようでしたら外しますのでご連絡ください )

 実際うちの家庭は、多分前にも書いたが墓じまいなので、この代で終わる。当然あらゆる面での終わりは意識しているのだが。普通免許をこの年になって取りに通っているのはそれの現れのひとつである(都市部ではいらないし、地方でも乗らないにこしたことはないのだが、親の今後の問題を考えると、急にかけつけたり運んだりすることもあるだろうから、取得しておくにこしたことはないのだ。もちろんそれだけではなく、楽しく乗ることも考えてはいる)。

 テレビでは芸人のいとうあさこ氏が酒の肴に家族もいないので…とよく墓の話をしていると言っていた。彼女はこの記事をポストしている時点では48歳と50歳は越えていないのだが、それでも、50歳で見えてくるものと同じようなものだ。この年齢になると実際にわりと眼の前で急に知り合いが消えて行く数が増えていく。芸人ならさらに成功を得ないまま消えていく知人も多いだろう。また、今の仕事の終わりもなんとなく見えてくる。するとそこからの余生、終わり方を考えざるを得なくなるのだ。保険にしても年金にしても老人ホームにしても。彼女があえて墓までを意識しているのは、結婚しないまま独身芸人的な立ち位置ももちろんあるが、あの年齢になるととにかくあらゆるところに可視化されて「終わり」が見えてくるということなのだ。

 そうなると、実はすごい達観するんですよ。その間の出来事を我慢する必要ってなくなるですよね。日常でアホなこと言われたり、ダメな環境にいてもスルーできるスキルがつくのはもちろんですが、いつでも止めていいかなというキモチになると何も怖くはないわけです。
 上の引用ツイートの通り、今後の選択を絞れるようになる。迷いはなくなっていく。年を経たことでここまでのタイムラインを俯瞰して客観視できる。ゴールが射程に入っている。そういう意味では未経験のまま何かをうすぼんやりと手探りしている若い状態よりも、老いっていいと思うんです。ただ若者は限りなく成功を志しているのと、死を意識する必要がないだけ、向上心の減った50代以降よりもいいのですが。
 自分の人生を振り返ると10~30代半ばまではそこそこよくて、そこからはなんとか生活は維持してますが、半分死んでるような感じ。とすると50代・60代あたりを楽しくしないと、ほんとうにそのまますぐに人生が終わっていってしまうわけで。ただ、もし子供がいたら我が子の成長のほうが大事なので、仕事やらなにやらがいかにどこまでも辛くても我慢すると思うんですよ。でもそこはうちの場合、特にないわけで。
 ならちょっとは経済的に困窮したとしても自由な時期を持っていてもいいんじゃないのかという気持ちです。平均寿命は長くなって100歳時代なんていってますけど、実際周囲で亡くなった人なんて平均寿命より10-20少ない人ザラですし。80代なんてあるかどうかもわからないわけです。もう誰も気にしなくなりつつありますが、このへんの食ばかり食べていれば、内部被曝も受けてるわけですしね。これは放射脳的なことで言ってるんじゃなくて、相当に近寄って高線量受けた人以外誰も死ななかったから検証しないままになってるわけで、内部蓄積は減衰が低いのは事実ですからね。まだ生かされてはいますけど、我々世代が安全だとは思っていません。

PIXTA素材(奥入瀬)

後から辛くなる

この記事は6月27日に書かれたものだが、当時カウンターが回りすぎて怖いのでいったん非公開とし、7月19日早朝に一部を再編集し、再公開したものである。

ついこの間一緒に酒を飲んだ知り合いが事件に巻き込まれて急に亡くなった。


例の事件(ブロガー刺◯とかIT講師刺◯とか言われているやつ)です。

ネットではF・F先生なんかも頻繁に飲んでいたようだが、僕もたまたま近い時期、(旧知のO君が来るけどどう、好きそうでしょ)みたいな感じで知り合いの元ネットアングラ系編、歌舞伎町住人に誘われて飲みにいった。
O君とは浅いなりに15-6年くらいの付き合いがある(けどかかわったのは3回くらい)。

新大久保駅に現れた彼と、もう1人の誘い主の人は先に(華僑服務社集合)となっていて、そのあとに入ったお店は、僕のセレクトで胡家小館 張亮麻辣湯(大久保店)だった。今考えるともう少しセレクトを考えてあげたほうがよかったかもしれないが、ネパールでもないしなと思ってここにした。奥に入らなかったのでガス台がないのか麻辣湯は食べられなかったが、中国感は非常に強いお店(こちらの意思がままならない、そしてそこそこには美味しい)。それなりには楽しんでもらえたのではないだろうか。同行した人は非常に面白い話を彼にしていたし。

彼は今後の展望から現在のネット収入まで洗いざらいしゃべってくれた。また、多分今の仕事から今後の生活を大きく変えようと考えていた真っ先だったのだろうが、だから本来は第二人格的な、本来つなげないはずのネットサイドの名前で露出を増やしていた。まさかその2ヶ月後くらい後に全てが断ち切られてしまうとは。

こう書いていても体が抵抗してくる。ですが、やはり地味に記録は残しておくべきだと思うのでとりあえずポストだけします。

浅い縁ではあるが2000年代前半から面識があったので、多少なりとも動揺はあります。その日に交換したLINEも事件後何度か見返してしまいました。そして事件後は、誰よりも彼の名とハンドルで検索をしていると思う。

1つだけ気になるのはネットでは我が物顔で善的な立場で追悼している人がいますが、あの人とO君は揉め事があったのが出会いなはず。少し前は仲がよかったのだろうか? 故人相手だけに相手が何を言っていてもそれが事実かはわかりません。ある意味では、無言の相手に対して礼儀をわきまえているとも言えるのですが、あのような芸的な数多い記事投下は割り引いて考えたほうがいいと思いました。
そもそも飲む約束にしても「親睦」というよりは、彼は当時、夏以降の展開に際して、興味のある人に会いに行っていたようですし。

まさかO君も予定を組んだ福岡のご実家近くの講演の場所でそんな目に合わされるとはまったく考えていなかったでしょうが(講演も今後やりたいことで暮らしていくためのものでもあったと思います)、そのわずか68日くらい前に、僕の眼の前の席、距離にして60センチくらいの位置に突然現れた理由をいろいろと考えてしまいます。偶然でしかないのでしょうが。僕の人生もわりと見えてきてしまっている昨今ですが、あの事件は僕の中では東日本大震災に匹敵するパラダイムシフトとなる出来事でした。まだそれが何という言葉にはできませんが。眼の前で知り合いが軟禁されようが、テレビニュースに知り合いが逮捕で出ようが、朝1のNHKサイトで上の人の面倒な出来事を知ろうが、どんな事件があっても驚かない僕ですが、じわじわとこの事件だけは翌日から来ました。意識として、必ずなにかしら変わっていくと思います。たぶんまず働き方が変わるでしょう。だって目の前の人が68日しか未来がなかったんですよ。今のままいる場合か。

いま思うと当日の写真はすぐにLINEで送るべきでした。僕のスマホの中には中華の食材をよそう彼の写真が2つほど残っていますし、彼との僅かなLINE登録のやり取りも残っています(マスには絶対に出しませんし出せるほどのネタはない)。残存した携帯はきっと契約を切る可能性も高いでしょうし、もし間に合っても遺族が見ることになるんでしょうが、回線契約が残っていたら、落ち着いた頃に送るつもりです。しかし、死というものは予想外にも身近なところにあるのですね。
トイレに行くたびに(特に現場がそうだし)、寝る前に、ニュースで顔が大写しになるたびに考えてしまいます。

そしてネットのアンダーグラウンドというのは終わっていくのだなとも。
ショッキングな話題でしたが、共有は本意ではないのでしないでいいです。そしてネットで嫌だなと思ったのは広告べったりな媒体にみんな彼の記事書いてるとこだよなと思ったのだが、ついここに書いてしまったら広告外せない(Wordpressならテーマによっては特定投稿だけ広告外すことができるがgoogleBloggerには当然ながらそういう機能はない)のは失敗だったな…。
そんなことはともかくとして、彼に、明日が来てほしかった。はあちゅうの事実婚にも、大手小町ウォッチャーでもある視点からも一言言っていただきたかったところ。「はあちゅうファンクラブ会長」というサブ肩書も書かれているの名刺が、いまも僕の机の右側にある。

レコード・プレイヤーズ

レコードプレイヤーが壊れた。 ダリのスピーカーを買ってつないだその日に壊れた。 残念ながらダリのスピーカーの最初の仕事は断線しているかどうかの仕事になってしまった。

 レコードプレイヤーは、既に撤退しているメーカー。子会社が作っていたようなのだが、 もう事実上サポートがない状態。 このプレイヤー、気に入っていたのだが、まだ数回しか通電していない。

雲を見た

雲をじっくり見た。子供の時、掃き出し窓のさんからずっと雲を見ていた。専門学校をやめて引きこもっていた頃と、鬱でこもってた30代半ばの頃も少し見ていたかもしれない。旅先で久々に見ることになった。遠いところに来た。

みきわめ

(運転)免許(=自動車学校)の「技能」がやっと第一段階ラストのみきわめまで行った。みきわめってなんだか緊張して嫌な名前だが、当然自分で緊張するのはわかっていたので1回で受かろうなどとは思ってもいない。2度で通過したが、あとは残りの学科数時間をやって学科側の検定を受けなければならない。それでやっと仮免へという段取りだ。みきわめ、大事だよね。いや人生的なみきわめですよ。

まあそれは諦めるとして、全然関係ない話だが、「漫画村」云々やら国家によるサイト遮断みたなことで「違法サイト」問題が脚光を浴びる裏において、「ネット広告産業」の表裏がわりと地味ではあるがやっと出てきつつあるなあと思う。

ネット広告屋さんは、決算前にだいたい数字だけ作ればいいので、裏側ではトラフィックを大量に持っているグレーなサイトをメインクライアントに持ってたり、あるいはそれを身内に個人運営させていたり、あるいはそのまま直で代理店自身が運営しているということは結構ある(複数代理店で知っている)。

「掲出先がわからない」という体でアドテクだのなんだの言ってるが、まるまる掲出先がわからないわけではなく、わからないように振る舞っているだけで、だいたい自分の会社がどこに出しているかは「だいたい」把握してるし、どこに出ているかわからないまま金が回収できるというシステムなら明らかに欠陥だ。

ほかにも黒いサイトに肩入れしている広告代理店だってそれなりにあるし、そうじゃないにしても表で一般、上場の顔していて裏で掲出先に違法サイトが含まれる、あるいは表向き会社をわけて掲出しているところなんてかなりの確率だったりするのだ。

そんなことは別の人が頑張って書いてくれるだろうからいいとして、僕も昔からアンダーグラウンドな世界に長く身をおいてきたので、そのような表裏については書かないこともいっぱいある。

終わったら書こうと思っていることもあるが、終わるころにはみんな興味ももたないし、忘れてしまうんだよな。しまいには死んだら死人に口なしですからね。
生きているうちに、書き時もみきわめていかないといけません。


最近、晩杯屋新宿思い出横丁店にいるときだけが楽しみだったりする。

必死で発信する理由

これから書くことはとりとめもない話で脳からだだ漏れたものだから読まなくていい

Webに定期的に投稿をする自分がいる。自己顕示欲ベースではない。だったらこの日記をSEOしてもっとアクセス数を増やすのだ。この日記に関しては、読まれるべき人にだけ読まれればいいと思っている。顧客を増やすということを目的としていない。
なぜ投稿で発信していくのか。理由としては、諸般の事情で収入を作らなければいけないのもあるのだが、一番大きいのはやはりいろんな意味で自身が役目を終えてしまったことが大きいんだと思う。
精神を保つことにはほとほと疲れているのだ。いまの仕事は早く卒業すべきだったかもしれない。生活のためだけに続けている。

仕事といえば知る範囲の人が最近メディアに大量露出している。再び脚光みたいなことを言われ周囲の人がなにかと華やいでいるが、描かれた世界、その残骸こそ、近頃は空虚だ。ああしてコンテンツ化されていくことで、いよいよ諸先輩方は総まとめに入ったのだなと思う。

もうまるで鎮魂歌みたいなものである。ご本人でなくとも同じく空虚な日々を送ってきた人たちは、キャラクターモデルとなってカタルシスを感じているかもしれないが、やはり面白主義の陰で客観的にみると人生についてなにかを犠牲にした人たちが多い(主に結婚や繁殖など)。だから滑稽になりそのデフォルメされた総まとめのなかでは羨ましくも見えるのかもしれないが。

20代の頃からいわゆるオーバードーズで亡くなった作家の、火葬場で親が一言挨拶するだけの葬式や、僕が制作を1回やった劇団の女優の病死、同僚編集者、先輩の作家、ゲームクリエイター兼経営者の葬儀、カメラマン(=写真は2017年10月、その人の祭壇に展示されていた遺品のカメラ)、ライター、その他さまざまな葬儀に出ているが、一部には自殺なのだろうか、気がつくと埋葬されていてどこにいるかもわからないという人も何人もいる。

我々の世代の葬式も子供のいない人が多いから結構な簡素なものになるんだろうなと思う。うちもこの世代で墓じまいになるからね。

霊気はあまり感じないたちなのだが、ゲーム系の人の時だけは、部下と2人とも同時に「いま、肩叩かれたよね」ということがあった。だいぶ前の日記かどこかに書いた気がする。平岸、HTBの近くだった。

最近寝苦しいのでそんな人の終わりのことを思い出すようになってるんだろうな。昨日は法事だったし。

と2月19日に書きなぐって未公開になっていたのでとりあえず公開だけしておく。

個人に余裕のない日本






何を正しいと見るか

先日、テレビ(「じっくり聞いタロウ」の特番・テレビ東京)を見ていたら、北朝鮮の洗脳的な『生活総和』(1週間を振り返る集会で自己の生活態度を「反省&自己批判」するとともに、同席者から1人を選び他者批判をしなければならない)が「人と人との関係を断絶させるシステム」としてとり上げられていた。

北朝鮮のように規律で縛っていくことで共産的な流れを維持している国では、資本主義諸国から非難を受けるようなシステムは様々に構築されているのだろう。自由という体裁になっている日本側の生活から見れば、とてもめんどくさい仕組みにしか見えないのは確かだ。

日本も経済洗脳国家なのではないか

今の日本には(もしそれに準ずるものがあるとすれば「人を縛りたい」一部の宗教団体や企業だろうか)基本そういう相互監視的なしくみは表立ってはないとはいえ、日本の生活システムも、特に労働の問題を中心とするが非常に子供すら育てづらい結婚すら難しい仕組みが作り上げられている。要はなんとか暮らせるくらいのカネしか渡さないからだが、元はといえば、自分の利益だけを見ている経済主要団体が非常によろしくない。

かつて、新卒の給料は、まあもっと出ていても、(東京の場合で)大卒であっても手取りで十数万だったはずだ。今も、新卒の給料は結構十数万のままが提示されていたりする。失われた20年、いやそれ以上であることを実感するのには、これが一番わかり易いのではないだろうか。25年前と変わらない、そんなカネで暮らせるか。

企業オーナーが相当な配慮でも行わない限り、本人がよほどしっかりとしていないと生活が2の次となる日本社会はもう正直、どうでもいいなと思っている。正直、国も経営者のほうしか見ていないのだから。

人の幸せを最優先にする企業が少ない日本に生まれたことはあんまり良かったとは思っていない。娯楽に関しては素晴らしかった時期もあるが。たまに幸せを追求しているような企業があると、マスコミはえらく特別な捉え方をする時点でおかしいから。


こうやって、国みたいに主題だけをでかくテーマにして語ると気持ちいい上に何も解決しないから気を付けなければならない。年をとってきたと思うし、細胞死んできたなと思う。

生誕71年エンケン祭り

なぜ最近日記を書かなかったのか。時折辛いからなのだ。


とはいえアウトプットしないと潰れてしまう。


昨日は、「生誕71年エンケン祭り~追悼・遠藤賢司」へ行ってきた。エンケンさんが亡くなってまだ半年も経過していないが、葬儀は近親者だけだったので、ファンはここまで待っていた。このイベントイコール、エンケンの死を受け入れること。事実上ファンが集える僅かな弔いの場所ではあった。



仕事を抜け出して行ったが、長丁場になりそうなライブなので、長時間食べ物もなさそうな場所で低血糖になるのが怖く、松屋でプレミアム牛めしを食べてから、渋谷クアトロに向かった。遅く行ったら原マスミや佐野さんのパートは終わっていた、大御所のミュージシャンがいっぱい出ることを考えると彼らはどうしても最初のほうになってしまうのだろうな。寂しいな。


エンケンというと遠藤憲一のほうが今は有名だが、遠藤憲一も開催記念の花台を出しているのがこのフォーク・ロックミュージシャン「遠藤賢司」の追悼イベント、「生誕71年エンケン祭り~追悼・遠藤賢司」だった。


僕は、昔は遠藤賢司さんの生家から至近距離に住んでおり、当時エンケンさんもやっていたローカルラジオ深夜番組スタッフとの付き合いもあり(当然常連投稿者としてだが)、さらにローカルなファン組織みたいなものを一時期知り合いとやっていたので、17歳から20代頭の頃に彼周囲の人々とは面識があり、いつもライブ会場では打ち上げまで入れてもらえていた。


あの時エンケンのライブに来る人達のいろんな人のつながりが基礎になって、結局この年まで惰性で仕事している所に就職も出来ていたし(受けることを常連客フリーライター/漫画原作の人に強く勧められた)、ほかにも20代の間にそれらの人脈や経験から様々な仕事が出来たので、エンケンを介した出来事は多く、エンケンには恩も縁もある人なのだ。


エンケンの奏でる曲は、後期には精神性、メッセージ性も強く、拳を振り上げたかのような語りと曲になっていった。勇気をもらえるような曲が多い。僕は前期のフォーク期の彼より、その後期に至る前の中期くらいのロック・テクノ等の融合してきた、いわゆる一般の元からのファンからすると「変になってきた」とも言われる頃が好きだった。アルバムでいえば「地球防衛軍」「東京ワッショイ」「オムライス」の頃か。この3枚が好き、という人は少数派だろうか。ラジオでは毎週かけていた「通好みロック」には強く影響を受けた。


僕が上京した頃多かった会場は、パルコの手前にある渋谷ジァンジァンだっただろうか、デザイン学生だった僕は渋谷に居て行きやすかったのでそこにもよく通っていて、エンケンライブはその頃は大体佐野(史郎)さんのやっていたタイムスリップがいつも対バンだったので、演劇に関わる人たち(後に映画「帝都物語」で怪演する嶋田久作など)がよく来ていた。その頃の佐野さん主演の林海象の映画「夢見るように眠りたい」には、エンケンもちょっとだけ出ている。ジァンジァンではチェルノブイリの核の雨の晩もエンケンライブで、嶋田さんに傘をさして自分は濡れて帰った。原マスミもよくその頃一緒にエンケンとやってたと思うけど、やっぱり昨日のエンケン祭りのように、ライブのあとは帰っちゃう人だったと思う(ということを思い出させてくれた)。あの頃なぜか、異常に売れていた漫画家のうのせけんいちとか、あの時代は別会場(マンダラ2など)だったかもしれないが江口寿史とか謎のエンケンに漫画家対バンというライブもいくつかありエンケンの懐の広さというか、あの頃のなんでもあり感が凄かった。


当時、エンケンはそのライブのあとの楽屋か打ち上げで僕に話したのか、茨城放送のラジオで聞いたのか、茨城放送のスタジオ脇かロビーで直接聞いたのか記憶が曖昧だが、僕がよく覚えているのは、茨城県の水戸駅で降りる人への批判だった。彼は生放送のため毎週常磐線で、水戸へ来ていたわけだが、「水戸駅ではいつも、降りる人を待たずにすぐに皆が乗り込んでくる。これはよくない習慣だ。」
ラジオでは茨城県民を「ばらきっ子」といい、茨城を愛していた彼だが、東京で酸いも甘いも体験し、フォーク全盛期はあらゆる地方にも行っていたであろう彼、出身の地域にはシビアな目線を向けることもあった。


その頃から20代後半くらいまでは僕はエンケンライブにかなりの頻度で通っていたし、エンケンのミッチー音頭が出たときはポリドールの人とも親しかったので、実際の文字起こしは音楽評論家の例の人だったが、リリース時に超3流女子高生グラビア雑誌で、インタビューも1回行った。「やっとここまで(一緒に仕事するまで)来たね」と言われたことを今でも思い出す。今思うと、温かく見守ってくれていたのだ。が、離れてしまったのは、まあいつまでも音楽家でもないのに打ち上げまで混じるのに抵抗があったこともあるし、忙しくてライブどこではなくなっていったからだ。20代後期の頃は、会社に10年くらい月半分は寝泊まりし、14~20人体制で毎月7冊くらいは本を出す、その大半の企画に関わりすべての校正をするという気が狂った班運営をしていたので。CDは買う時もあるけど、ライブにはすっかり行かなくなってしまった。


最後にエンケンさんとあったのは映画「エンケン対日本武道館」で、十年以上ぶりだったかな。テアトル新宿、上演後のロビーだった、サインを台本にもらった。そのときも「どんな本でも、エッチな本でもいいから送って」と言われたのだよな。エンケン事務所は当時住所非公開だったから、結局彼には僕の成果物を見せることは、若い頃にインタビューした前期の3流アダルト雑誌1冊だけだったけど。


その映画「エンケン対日本武道館」パンフレットで文面を書いているのが後輩だった。(また最近の某追悼番組にも別の後輩が出ていて、ああ、結構な知ってる人間がエンケンに関わっているのだなと思ったりした)。


映画のあとは雨だった。映画鑑賞後もエンケンは今日がどこで打ち上げているのだろう、このへんでやらないかなと思いながら、歌舞伎町の上海小吃で1人青島ビールを飲んだ。


そんな記憶の断片を数々思い出しつつ臨んだ生誕71年エンケン祭り(2018/1/31)、もうエンケンはいない。イベント(ライブ)には細野晴臣さんや、鈴木慶一、鈴木茂、遠藤ミチロウ、あがた森魚、PANTA、フラカンなど凄い人たちが集結していたが、その豪華さよりも、ライブを見ている側としてはホントは距離感の近い人たちだけが集って欲しかったところがある。エンケン・トリビュートアルバム「プログレマン」みたいになってしまうような気がしてちょっと恐れていたのだ。あのアルバムはエンケン大好きな人たちが作ったものだが、愛の度合いというのは差が出てしまうので、僕は一度聞いたきり、あまり好きではないアルバムなのだ。


エンケンが生きていた頃に、ライブ中のMCの端々でミュージシャン同士の距離感を感じることがあったが、まあ売れる売れないで付き合いを変えて行くような人もいるだろうから、離れていく人もいれば、性格の悪いことを言う人もいるだろう。それは仕方ないのもわかる。そして、今回のお祭り、通夜に皆が話すようなもので当然近しかったり遠かったりが交じるのは当たり前なのだが、1曲の合間のエピソードトークに人の距離の違いが現れていたと思う。


ライブイベントに凄い人が揃う。確かに素晴らしいのだが、どこかずれてはいた感じも拭えない。しかし、それでもエンケンに、皆はその歌唱をささげているのは間違いはない。個人的に違和感を感じた、というか気になったのは、あの頃の有名ミュージシャン、そういう人たちは1/3くらいは名乗らない。老けていることもあり、僕としては誰が出ているのかが歌うまでわからないのだ。ワンマンしかやらないような人は、最初に名乗らない習慣がついているのだろう。


しかしこういうオムニバス1人1曲ずつのイベントで、いわゆる黄金時代のフォーク・ロックミュージシャンで名前を言わないアーティストは、まあ自分のことはみんなわかっていると思っているのだろうが、慢心していると、若い人に理解されていかなくなってしまうのではないかと思った。初見の客を大事にしないミュージシャンはだめだ。僕は、名乗った人だけを応援していく。エンケンだっていつも「我こそは……」と口上で名乗っていたではないか。表面で凄い人が集まっている、伝説だ、という人が多くとも、エンケンの精神性など判ってない人が少し居て残念だなと思ったりもする。


物販と展示はすごく良かったし、献花台も神々しかった。どこかに彼がいる、その感覚は、ライブ中にも味わえたし、別の人が彼の曲を歌っていても、皆彼の歌声が脳裏で重なっていただろう。展示物からも、彼の足跡がほんとうによく見えた。

展示物、これはどこかに常設展示をするべきだと思うのだ(コストがかかるからそうもいかないのだろうが)。


故人の持ち物の一部は、ファンに持ってほしいということで売られていた。ファンにはまたとない機会ではあったろうが、何か寂しいものがある。


当日ライブ会場を見ながらさらに自分の記憶をまた思い出した。たぶんそうとう昔のクアトロのライブ(?)で打ち上げでステージ前に席を並べそうそうたる面々とお酒を飲んだような記憶(会場は違うかもしれない)。コメンテーターでテレビでも目にする演劇系大女優が対面にいた。エンケンさんの打ち上げではあるのだが、当然何十人と人がいて、エンケンは様々な人と話をしているので、酒の席ではエンケンの思い出はあまりないのだ。エンケンさんはライブの後、いつも多くの人に囲まれ、楽しく飲めてうらやましくもあった。

あとは、エンケンバンドにいた湯川トーベンさんをライブで見て急に記憶が甦ったのは、大昔の代々木チョコレイトシティ(ここもよい箱だった)のライブのあとに、昔好きだった娘と、打ち上げで焼き鳥屋かなんかに一緒に参加したことを急に思い出した。そのときはエンケンバンドに居たトーベンさんとかが対面にいたのだが、なぜかエンケンではなく、えらくトーベンさんと話せたことに彼女は興奮していたな。
バンドとしてのエンケンバンドに行ったのはそれが最後かな。


トーベンさんを見たのもそれ以来だが、この日のエンケン祭りでは、トーベンさんは幸せになっていた。自分は子供がいないのでちょっとしゅんとしつつも、命にまつわることを身ごもった奥さんからも感じ取れて、一方でエンケンはもうここには居ず。死と生の地続きなメッセージでもあったね。


話が逸れた。 



ところで2018年2月17日に遠藤賢司の映画の爆音上映がある。(テアトル新宿)検索するとほとんど出てこないが、これは見に行ったほうがいいと思うよ。アルタミラはそれよりこれらの映画コンテンツをリマスターしてブルーレイにしたり、また生前の映像(たとえばゆうせんのDVDやMUISICAIRのDVDやフジテレビの生前出演番組)を収集して再度上映したり再リリースにしていったほうがいいんじゃないのかな。


追悼といえば、孤高の純音楽家が亡くなった途端、版元2つから本も出た。本当はいろいろとエンケンとの何かをやりたい人って、いろんな業界に一杯いたんだろうなと思うが、生前から出してほしかったところもある。雑誌コード商品は、在庫が切れると入手困難になるので、買っておいた方がいい。
忘れていくことが追悼ではないので、これからもエンケンのことを思い出してはいこう。


帰りに知り合いでもあり、エンケンとも(友達として)長い付き合いの、某俳優の奥さんでもある女優の人に会ったのだが、最初は声も掛けずに帰るつもりだったが、出口に、また知り合いの、長年のエンケンライブにはほとんどいる客である常連(こちらも面識あり、エンケンを何か自身の主催するものに呼ぶのが夢だということを20年くらい前に語っていたが実現したのだろうか、たぶん実現してないんだろうなと思う)と丁度滞留していたので声をかけた。
女優の人には「私は変わらないよ」「これもエンケンが作ってくれた縁だね」みたいなことを言われて、ちょっとは嬉しかった。「健康ですか」と聞かれて、自分は返事を言い澱んだ。


会場の物販では 「史上最長寿のロックンローラー」のでかいアナログ記念盤と、「けんちゃんのピアノ画」のアナログ盤と、ステッカーを買って帰った。さすがにでかい記念盤はもうAmazonなどにも登録はないようだ。

けんちゃんのピアノ画(スケッチ) [Analog]

ステッカーといえば昔エンケンの黄色い不滅の男シールを持っていて、もう今だから時効なのでアレだが若気の至りで数十年前に原宿駅の柱に貼ったのをまた思い出したりしている。なぜ原宿だったのか。という犯罪告白でこれを終える(まあもう剥がされて恐ろしい年月も経つし、今更なのだが)、記憶を辿っていった結果、最終的には不本意な日記になってしまった。


曲のみならず人間関係にも様々な影響を与えてくれた、エンケンには本当に感謝しかない。

対人恐怖の人にはよい時代だが、コミュニケーションはいらない時代

人とあまり接さなくてよい時代がきた。
セルフレジもそうで、対面しなくていいということはそれはそれで気が楽だ。
筆者はものすごく昔に社員旅行で行った海外スーパーでセルフレジを体験して以来久々に
ユニクロで体験したが、会計1分ですむし、
まあ悪くない。

民間信仰の神社

たまにすごく小さい地域の神社に惹かれることがある。特に大きな御神木のある神社が好きだ。なぜ神社が好きなのかというと、どんな神社にも由来があって、それを紐解いていくことで地域の歴史にも繋がってくるからだと思う。
昔、たまたま偶然に僕の本名と同じ名前の神社を発見したときはすごく興奮したのだが、あまりたいした由来はなく、ただ場所はここでは割愛しておくが、その立地が興味深かった。

JOCX-TV2

眠れない、眠らせない。かつてバブル期のフジテレビ深夜番組帯、JOCX-TV2はそんなキャッチフレーズだった。


いまの僕はそのまんまな状態というか大体3時間で起きてしまう。不眠が続いている。理由は3つあり、まず糖尿の薬の影響で水を多くを飲むのでその影響が1つ。2つ目は一度起きると不安などで眠れずスマホをみると明るくて目が冴えてしまうということ。3つ目は、この2つが習慣づき気味だということ。


薬は朝のみに変えたのですこしは夜の過剰な水摂取の状況も変わるとは思うが、起きてしまったものはやむないのでネット投稿などしたあと二度寝で対応している。


年を取ってただ睡眠時間が短くなりつつあるのかもしれない。

どうでもいい日記

damasareta
DMMアフィリエイトの管理画面。騙された!なんらかの表示不具合なんだろうけど。こんなに上がっていたら安泰だよ。騙され(D)メディア(M)マート(M)。どうでもいい。