2021年5月9日
2021年5月9日
昔iPhoneのいわゆる易占アプリで「きちがい犬」と言われたことがあるtxです。まあ、実際そういった気質はあるというか、すんなり納得しているのだが、そのアプリは、部下の体力衰退~死といった現象すら言い当ててた恐ろしいアプリでもあった。アンドロイド版がなかったのでいまは世話になっていない。
破滅型、シニカルだと「言った言わない」「やったやらない」で揉めるのは普通の家庭にあることだが、「~といっていたが状況が変わりこうしただろう」といういわゆる前述の犬のような変動要素が私の脳にはあり、溝は深くなっていくのかな、という体感がある。
話は変わるが、思い出すのは母親が、自分が30-40代になってから僕に告げたこと。「あまりお父さんが好きではなかった」。
まあ大人になってから漏らすのが適正な案件ではあるだろう。幸せの連鎖を作ろうと考えている立場において理解しがたい存在のありようはよろしくない。母親もまたその時期には父親と溝を深めていたに違いない。
いまや理解しがたい存在になったのは自分のほうだが。
よく考えると、大人になってから、親から誕生日を祝ってもらったことがない。
親は誕生日に何か送ってくる習慣がないようだ。これも、何かあるのか、それとも逆になんとも思ってないのか、という話のどちらかだろうか。単なる虚礼廃止主義なのかもしれないが、自分がシニカルに、そして狂った存在になる素地というのは、親世代のそのへんのクールさというか、粗雑なところというか、その流れなのだろうかね。
少し前、私は妻の薦めで見た韓国ドラマの「SKYキャッスル」を見終わった。いわゆるお受験ものだが、学業に励むあまりの狂信的になっていくさま、それをやめたときの憑き物が落ちたような安堵はよくわかる。結局人は呪縛から解かれたときに自由になっていく、ということなんだろう。
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