日本独特の性愛歌謡
歌というものは、どうにもならない大きなことがあると自粛される宿命のものであるということは、必要不可欠なものではないのではないか
先の震災の時もその前の震災のときも、古くは昭和天皇がご崩御されたときにも、歌舞音曲は自粛を余儀なくされた。一方で歌は勇気や慰めのためのものとして何も今じゃなくとも、というときにも無理矢理に被災地にやってはチャリティ等の偽善的行為を行っていく。もちろんそんなことはなく、ちゃんと現地に向き合った人もいるのはわかっているが、しかし先の震災の時に率先して駆けつけていったのは多くが芸能人だ。確かに時間があるということもあるし、そこで芸能人の力が発揮できるのは確かだが、別にそこまで大挙していくことはないだろう、と思ったら、たとえば東北での講演会場等の利権がかんでいる場合もあるんだってね。なんだか。恋愛がテーマなのはふつうなのだが…
そんなことはさておきとして、歌舞音曲というものは何かと恋愛がテーマであることが多い。これは万国に共通の傾向だが、日本の特に昭和歌謡は独特なというか、性愛を比喩したような歌詞が多すぎると子供のころから感じていた。まあかつての高度成長期は土建業の時代でもあり、男を働かせることに多くの重きを置いていた時代。だから男尊女卑で、しかも(働かせるためにそれらの描写にある程度の黙認があり)エロ大国であったこともあるのだろう。そのような曲の最高峰はテレビ東京のメガロポリス歌謡祭で見てさまざまな意味合いで画期的で衝撃を受け、自分でも大人になってからシングルを買い求めた坪倉伊織の「王様と私」の歌詞(なかにし礼)に象徴されると思うのだが、そちらは本人すらこの話をするのは嫌がっているようだし、かつ原盤を聞いている人も少ないので、これを議題にするのは難しいのです。たとえばわかりやすいものにしてみると、おにゃん子クラブの「セーラー服を脱がさないで」あたりならわかるだろうか。処女をテーマにしておいて最後には「食べて」である。それを女に歌わせ、男に大量消費させる世の中はくるっていた。食に性をのっけた歌詞は当時でもなんだかなあと思っていたのだが、まあ何十年もたった今頃言っても何だって感じでしょうね。それもわかる。でもやっぱり日本の歌謡曲っていうのは変で、特に年端もいかない若年女性アイドルの楽曲には性愛をテーマにしたものは昔のほうが多いが溢れてはいる。また成人が歌う歌謡曲に不倫をテーマにした曲が多いことも日本の特徴ではないだろうか。
まあ共通の誰でもが参加可能なストーリー性と夢があり、修羅場に感情移入しやすいのかもしれないが、それにしてもそれで「絆」だの「音楽は大切だ」とかいってる商業歌謡の世界には二面性があるというのも事実で、「音楽は素晴らしい」っていう建前と下劣な歌との矛盾があまり好きになれない。
業界で必ず行われる音楽イベント(日テレの音楽の日とか各局の長時間のああいうやつ)も、まったく好きでないし、あんな音楽不振の世の中でそんな音楽漬けイベントを行おうというのは何か大きい力が働いているとしか思えないんだよね。
いまでもクリーンというのは建前で
もともとは歌謡の世界はその興行性から筋モノも多い世界で、よく言われるのは神戸のホンモノだった美空ひばりの事務所だが、だんだんと事務所はそうじゃなくてこわくないよ、地方興行業者のほうが本物みたいな時代を経ていまでこそおおむねクリーン、芸能事務所は新卒社会人が働いている会社という体裁にはなっているものの(むしろもっともアンダーグラウンド業界筋と付き合いの薄いジャニーズの恫喝のほうが凄いということがこないだのSMAPの生放送会見で露呈したが)、業界団体の傘下の人たちのほうが合法的に裁判などで筋的な圧力をかけるような仕事になっていたり、僕が知る運転手、マネージャー上がりの大物事務所会長も元は堅気じゃなかったりとかします。だからまったく業界的にはいま表立ってそっちの人は出てこないですけど、まあなんかあったら出せる状態にはある、密接交際者だと紳助のように追い出されちゃうので綺麗なことにはなってるけど。暴対法の改正以降に大きな問題は起きてませんが、間接的にはクリーンじゃないですよね。ああいう人たちを集めて年に1回NHKは紅白をやってますし、たぶんNHKがたいした身体検査もせずグレーゾーン芸能人を呼んでいるうちは、芸能界も永遠に粛清されないでしょう。実力主義なのはいいことなのですが。
話がそれました。まあ昭和演歌なんかだと、実業家という体のスポンサーがいるとかのケースもあったりしますけど、やはり歌詞が性愛に偏りやすいのは、作詞家が遊び好きなのか、それともそれら業界人たちの自堕落な大人の世界の表現を追求しているのかのどちらなのでしょうか。
写真:個人的に好きすぎる「王様と私」(テイチク)