50歳を越えると終わりを意識する話
私の場合、40歳と50歳の違いは50歳になるときは「死」が射程距離内に見えたんですね。— Hiroyuki Takenaga (@nynuts) 2018年9月2日
これ言うと、みんな少し悲しそうな顔するんですが、私は結構ポジティブに取ってます。ケツが見えるから無駄なことをしなくなるというか、やるべきことが物凄く絞り込まれると思うんです。かえって生きやすくなる。
人のツイートを勝手に埋め込ませていただきました(twitterの規約上は、正規に埋め込めばOKになっていますが、問題あるようでしたら外しますのでご連絡ください )
実際うちの家庭は、多分前にも書いたが墓じまいなので、この代で終わる。当然あらゆる面での終わりは意識しているのだが。普通免許をこの年になって取りに通っているのはそれの現れのひとつである(都市部ではいらないし、地方でも乗らないにこしたことはないのだが、親の今後の問題を考えると、急にかけつけたり運んだりすることもあるだろうから、取得しておくにこしたことはないのだ。もちろんそれだけではなく、楽しく乗ることも考えてはいる)。
テレビでは芸人のいとうあさこ氏が酒の肴に家族もいないので…とよく墓の話をしていると言っていた。彼女はこの記事をポストしている時点では48歳と50歳は越えていないのだが、それでも、50歳で見えてくるものと同じようなものだ。この年齢になると実際にわりと眼の前で急に知り合いが消えて行く数が増えていく。芸人ならさらに成功を得ないまま消えていく知人も多いだろう。また、今の仕事の終わりもなんとなく見えてくる。するとそこからの余生、終わり方を考えざるを得なくなるのだ。保険にしても年金にしても老人ホームにしても。彼女があえて墓までを意識しているのは、結婚しないまま独身芸人的な立ち位置ももちろんあるが、あの年齢になるととにかくあらゆるところに可視化されて「終わり」が見えてくるということなのだ。
そうなると、実はすごい達観するんですよ。その間の出来事を我慢する必要ってなくなるですよね。日常でアホなこと言われたり、ダメな環境にいてもスルーできるスキルがつくのはもちろんですが、いつでも止めていいかなというキモチになると何も怖くはないわけです。
上の引用ツイートの通り、今後の選択を絞れるようになる。迷いはなくなっていく。年を経たことでここまでのタイムラインを俯瞰して客観視できる。ゴールが射程に入っている。そういう意味では未経験のまま何かをうすぼんやりと手探りしている若い状態よりも、老いっていいと思うんです。ただ若者は限りなく成功を志しているのと、死を意識する必要がないだけ、向上心の減った50代以降よりもいいのですが。
自分の人生を振り返ると10~30代半ばまではそこそこよくて、そこからはなんとか生活は維持してますが、半分死んでるような感じ。とすると50代・60代あたりを楽しくしないと、ほんとうにそのまますぐに人生が終わっていってしまうわけで。ただ、もし子供がいたら我が子の成長のほうが大事なので、仕事やらなにやらがいかにどこまでも辛くても我慢すると思うんですよ。でもそこはうちの場合、特にないわけで。
ならちょっとは経済的に困窮したとしても自由な時期を持っていてもいいんじゃないのかという気持ちです。平均寿命は長くなって100歳時代なんていってますけど、実際周囲で亡くなった人なんて平均寿命より10-20少ない人ザラですし。80代なんてあるかどうかもわからないわけです。もう誰も気にしなくなりつつありますが、このへんの食ばかり食べていれば、内部被曝も受けてるわけですしね。これは放射脳的なことで言ってるんじゃなくて、相当に近寄って高線量受けた人以外誰も死ななかったから検証しないままになってるわけで、内部蓄積は減衰が低いのは事実ですからね。まだ生かされてはいますけど、我々世代が安全だとは思っていません。
![]() |
PIXTA素材(奥入瀬)
|