誘蛾灯
僕にとっての誘蛾灯は仕事の成果とかブログとかなのだ。自称小説家は小説を書いたり書かなかったりしてその合間にねんごろになったりとかしてはヒモ化していくのだが、そういう才能はないので、ひたすら適当な文字で無駄なコンテンツを作ったりして、本来やるべきことは二の次にしたりして、そんなもので何になるのか、何にもなるはずはない。
が、そんなコンテンツでもずーっと書いていると適当にアポイントメントがあったりする。メインサイトのほうは開始時から2年くらいは執筆依頼と取材依頼が頻繁にあった。全部結果的には受けなかったのだが(みんなギャラを十分に用意してないから、断って当たり前だが)。それがうざいからニュースサイト化したというのもある。そこまでは、あくまで実体験を1日1つずつ書いていたのだが。写真を載せなくなったのも、だんだんといらないところでバレる必要はないなと思ったからである。そうしてこっちでだらだらと5人10人しかみない日記を書いていたら、昔のファンとかがふらふらと近寄ってくれた。でも彼女は僕の文章が好きだったので、彼女がいる間に僕はブログも書かないし(その頃鬱がひどかった)、食事仲間としては成立しても、僕の狂いぶりには不安を覚えたのだろう。今はもう蝶となって、別の人(からまた別の人)のところへ旅立たんとしているが。
昔は、毎月7冊から10冊くらい本を出していたので、いつも会社の床でぶっ倒れていた。その頃に長年好きだった人が、冷房が効いている所のPCデスクの下でぶっ倒れながら打ち合わせをしているような僕に手を差しだし、一度引っ張り出してくれたことがある。
そういう関係になるまでは既に知ってから6年目くらいが経過していたが、折れたのは、不憫に思ったのかも。ずっと倒れているのもある意味では、誘蛾灯的効果があるのかもしれない。破局はそれから半年も経たない。若いなりの失言をするからだが。「仕事の理解者である」キミが好きみたいなことを言ってしまったのがダメだったのだと思う。彼女は僕の仕事が好きなワケじゃないからね。そして無用なバイタリティが大事なわけではないからね。雨の中、部屋のソファを濡れた足で汚したことが最大の怒りを呼んで、それからずっと音信不通になった。
勿論そんな2例だけではないし、今も仲良くしている人もいるのだが、たいした恋もしていないのは基本的に一人の人を好きになると6年くらいは持続する性格だからなのだろうか。
最近は自分のメールボックスもすっかり広告会社とかのもので埋まっている。最近は誕生日にサイトからのメルマガでしか祝って貰えない、なんてことはどうやら僕だけではないようだ。人とのコミュニケーションを絶たれた気がする昨今。日本は犯罪防止の観点から、サイトリリース上はコミュニケーションコミュニケーションといいつつもリアルでの出会いは阻害するようなことを好む。いつからこんな世の中になっていったのか。
外のエアコンの脇を見ると、どこからも死角となるような隅に、蝉が死んでいた。
蝉も、朽ち果ててまで虫と戯れたくないのだろう。月も出ていないような雲の中、ドコモタワーが幻想的な姿を見せる夕方だった。
いや、夕方は仕事するべきだと思うよ。と思うかもしんないけど(そのときは)日曜日だからいいのだ。どうでもいいことを思い出したあと、手足が腐る日を想像して、それを少しでも回避しようと、血行をよくするためにサウナにいった。
蛾を誘うような蒼い光は新宿では激減している。靖国通りから見ると、半分くらいのネオンが消えているんだよね。この状態にマジで危機感を感じないようなら、歌舞伎町の人々は相当に鈍感だと思う。
コメント