文の品質
(遠い昔に)知っていた編集者が、別の業種のサイトを始めていたので見てみる。あえてリンク貼らないけど、自信の無さがサイトに出るんだよね。(仮)だったりとか、「募集」の文にお金になる感じがなかったりとか。
別の記事で、はてなの東京事務所に言葉の怖さみたいなのを訴えているもとテレビマンの人がいるんだけどhttp://d.hatena.ne.jp/aureliano/20090611 それを書いている文のほうが境界にいる感じになっちゃったりしてる。これはわざとなところもあるだろうし、いろいろぼかした結果こうしか書けないんだろうけど。
この2例を見て、文(言葉)の怖さは、芸としてやっているにせよ、予想外の部分で人のこころの状態のこまやかな部分を伝えてしまう点かなと思っている。
あと、文の話じゃないけど、下のリンク先の記事見てると、日本では、個人の狂気が文化を作っていたようなことが書かれている。しかし、いまある狂気というのは、文化として編集者なりプロデューサーなりが拾っていくものということでなく、Webでは狂気をそのままウォッチングして、時に参加し、時にまとめていくというものが主流だ。http://japan.cnet.com/blog/sasaki/2009/06/09/entry_27022912/
文は人の精神状態が露骨に反映される。参っているときはやはり参っているなりの不快な文面しか書けないし、でも人はそういった感情は排出したくなるもので、かつてはそういうものは個人の日記で終わっていたのだろうが、mixiに代表されるいわゆる友人同士の情報共有や、ブログなどで他の人へいやおうなしにその悪感情は伝わっていく時代となっている。このへんにWebで病んでいる人が多い原因をつかむ鍵があるのかもしれない。
文には表情以上に何かの力がある。だから、プロは一度読み返し、その余計な部分を取り除くようにして、清書をする。呪詛とかどうでもいいのだが、もしかしたらWebのコンテンツとして最も優秀なのは負の感情なんじゃないかという気持ちもしている。まあもう黎明期からいる人は飽きちゃってるんですけど、そういうの。
文章って、よい文を書くために添削をするよりも、文章による健康診断みたいなのを行ったほうがいいんじゃないのかな。精神病のバウムテストは絵だけど、たとえば文ににじみ出るものからのテストのほうが、判断が容易なような気もするのだが。形態素解析とかして、自動で「病んでます」とか出るサイトとか。安易に作られても困るだろうけどね。
健全な肉体に健全な精神が宿るじゃないけど、文章はそのときそのときの「何か」や精神状態が勝手に染み出す。狂気を売りにしている私小説家はどんどん身を持ち崩す。エンタテインメントとして、芸として文章を売るのはいいのだが、自分が吐いた文から体を悪くしたりはならないようにしていきたい、と適当に思った。適当に思うなよ。
いま、文章をはじめとしたコンテンツの世界は出版がむちゃくちゃになっているせいで非常に価値が落ちている面もあるが、文はうまい下手じゃなくて人が出てしまう部分もあるわけで、そういう人の出ている文章っていうものを味わうみたいな、そういう評価軸がもっと出てきてもいいのになぁ。文体開発としての「あたし彼女。」は評価するけど、精神軸がついてきてないというか。
文章のヘタウマの味みたいなのを堪能するには、やっぱり素人の文章に限るというか。そして、本よりも生の文のほうがよかったり。Webのウォッチの醍醐味なのかもしれないね。
とばらばらで、重複箇所も多い上に一部意味も通らない文章を、まとめあげないまま並べて、校正もしないと不安を煽るね。
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