軍歌の記憶
月に一度の半蔵門。靖国のうどんでも食べようかと思ったが腕に日の丸の入った方々が手前に陣取っており、また若干不適切な英文Tシャツを着ていたのでやめた。— tx (@urashinjuku) 2016年8月23日
九段下でふとよみがえった記憶がある。中学の頃に日本テレビの依頼で軍歌をモチーフにした映像ロケをセッティングした。脚本は放送作家だろう。こちらは中学生だからなにも考えずにエキストラとして同級生を手配した。日テレはロケバスで来て、いきなり中学生に軍歌を歌わせた。(続く)— tx (@urashinjuku) 2016年8月23日
さすがにあとから親サイドが抗議して、これは俺の関与ではなく日テレが指示したものですみたいな注釈を入れさせたが、あの時分戦争帰りのおっさんも結構いただろうに、放送作家も局Dも俺の名前のもとに子供の軍歌歌唱映像撮って、心傷むクレームが来たらどうするつもりだったんだろうなあ。(続く)— tx (@urashinjuku) 2016年8月23日
あのときテレビに出れるからということで協力してもらったロケメンバーには、いきなり軍歌を歌わせてしまって、判断もつかない年だったから大人になってから再び見た人や、当時の親御さんはいろいろ複雑な心境だったろうなあ。まあでも当時の日テレの人はみんないい人だったよ。というのを思い出した— tx (@urashinjuku) 2016年8月23日
おちはないです。靖国でいろいろと記憶が繋がっただけ。— tx (@urashinjuku) 2016年8月23日
出てから、あまりに暑いので冷麺を食べたが、量が少なくて失敗だった。
麹町にあった日本テレビは、汐留に社屋が移ったあとも分室とスタジオとして現存しているが、中坊だった僕にさえやさしくしてくれて当時仲が良かったDの人はすぐに辞めて家業を継いだのを覚えている。ここも半蔵門から歩いていけるので、よく通る。
上記の話は相当な昔話だから、放送作家がいい加減というか、放送作家のほうが力関係が強いし、今と違って自粛自粛ではないイケイケな時代だったので、今だったら制作サイドで止めるであろう原案でも通してしまったのだろうなあ、と思う。